認知症の母ができるたくさんのこと

認知症はご本人にとっても、介護するご家族にとってもなかなか受け入れにくいもの。
ご本人は、どう感じているのでしょう。家族はどう寄り添えばよいのでしょう?
脳科学者であり、アルツハイマー型認知症になったお母様を介護し、日々の生活の中でつぶさに記録を取り続けた恩蔵絢子先生と、長年認知症の方やそのご家族に寄り添いながら診療を続けてきた医師 繁田雅弘先生。お二人の心のうちをお聞きください。

認知症介護経験者インタビュー​​

恩蔵 絢子先生

恩蔵 絢子
先生

脳科学者。
東京大学大学院総合文化研究科特任研究員。
金城学院大学、早稲田大学、日本女子大学
非常勤講師。

東京工業大学大学院後期博士課程修了(学術博士)。専門は人間の感情のメカニズムと自意識。
著書に『脳科学者の母が、認知症になる』(河出書房新社)、共著に『なぜ、認知症の人は家に帰りたがるのか』(永島徹氏との共著、中央法規出版)、訳書にジョナサン・コール著『顔の科学』(茂木健一郎監訳)、アンナ・レンブケ著『ドーパミン中毒』などがある。
2023年には認知症の母親との家での時間に密着したドキュメンタリー、NHKスペシャル『認知症の母と脳科学者の私』が放映された。
認知症に関する経験や脳科学の専門家として、執筆活動や市民向けの講演も積極的に行っている。

繁田 雅弘先生

繁田 雅弘
先生

聞き手

医療法人社団彰耀会栄樹庵診療所 院長。
東京慈恵会医科大学 名誉教授。
東京都立大学 名誉教授。
日本認知症ケア学会理事長。
日本老年精神医学会理事。

東京慈恵会医科大学医学部卒業後、東京慈恵会医科大学精神医学講座入局。2017年より東京慈恵会医科大学精神医学講座担当教授、同大学附属病院精神神経科診察部長を歴任の後、神奈川県平塚市にて医療法人社団彰耀会栄樹庵診療所を開業。同じく平塚市の実家にて、認知症の啓発活動などを地域と行う「SHIGETAハウスプロジェクト」を主催する一般社団法人栄樹庵代表理事を務めるなど、医療の枠にとらわれず認知症の人をいかに支えるかを追求している。
また、専門医やかかりつけ医の認知症診療の講習や研修に関わり、市民向けの講演活動も精力的に行っている。

いつもの母ではない…?
小さな違和感との出会い

INTERVIEW 1/8
繁田

繁田

お母様が65歳という若さでアルツハイマー型認知症と診断されました。一緒に過ごす時間の中で、「これはいつもの母ではないかもしれない」と感じた最初の瞬間は、どのあたりだったんでしょうか。

恩蔵

恩蔵

最初は本当に小さなことでした。ある朝、母が「桜が満開よ」と言って私を起こしに来たんです。窓を開けたら、咲いていたのはたった一枝だけ。なぜ?と違和感がありました。

繁田

繁田

なるほど…。一見ささいだけれど、家族にとっては大きな違和感ですよね。

恩蔵

恩蔵

そうなんです。“完璧な母”を知っているからこそ、「あれ?」と胸がざわつきました。あとは頼んでいた時間に起こしに来なかったり、味噌を買いに行ったのに買わずに帰ってきたり。まるで点々と落ちるインクのように、小さな異変がゆっくり積み重なっていったんです。

いつもの母ではない…?小さな違和感との出会い

脳科学の専門家でありながら病院へ行けなかった1年

INTERVIEW 2/8
繁田

繁田

ご家族は、そんな “日常の小さな崩れ”にとても敏感になりますよね。多くのご家族が同じ経験をされています。

恩蔵

恩蔵

はい。些細なことではあるのですが、驚くことが増え、とても戸惑いました。母はピアノの先生として仕事をし、趣味で合唱団に入って活動するなど、活発で社交的な人でした。家事一切を引き受けてくれていて、全てを母に頼り切っていました。完璧な母が弱っていくようで、イライラして怒ってしまうことも増えていきました。

繁田

繁田

研究者として冷静に分析できる立場でも、受診に至るまでは葛藤がありますよね。

恩蔵

恩蔵

まさにそうでした。普通だったら起きないことが起きているという感じ。治る薬がなく、進行する病気だとわかっていたので「アルツハイマーかもしれない」と思いながらも、診断を受けるまではずっと怖くて。この先本当に私のことを忘れて街を歩き回るようなことがあるとするならば、その母を、母と呼べるんだろうか…。診断されたら“終わり”だと思っていたので、母の前で“認知症”という言葉を口にすることにも、ためらいがありました。誤魔化して、誤魔化して、でも夜になると誤魔化しきれないと毎晩泣いていました。

繁田

繁田

その気持ち、ものすごくよくわかります。多くの患者さんご家族は認知症と診断されることを怖がる。もう何もわからなくなってしまうんじゃないかと。受診までに数年かかることも少なくありません。何が恩蔵先生の気持ちを後押ししたのですか?

恩蔵

恩蔵

決定的だったのは、母が長年取り組んできた合唱の発表会でのこと。本番の舞台なのに、母は楽譜が追えないようで、横にいる人に「今どこ?」と何度も聞いていたんです。音楽家としてプロ同然だった母からはあり得ない姿で…。その瞬間に父と私が目を合わせて、「病院へ行こう」と決めました。私も受診までに1年かかってしまいました。

脳科学の専門家でありながら病院へ行けなかった1年

何もできなくなるわけじゃない…。
診断がついたことで変わった景色

INTERVIEW 3/8
繁田

繁田

受診して、海馬の萎縮を指摘されたときのお気持ちはどうでしたか。

恩蔵

恩蔵

「問題がはっきりした」と思えてすごく安心しました。脳の中で海馬が少し縮んでいると言われてもそれはほんの一部で、脳画像を見ても脳の大部分はまだまだ無事で残っていましたから。それを知って、見える景色がガラリと変わったんです。「何もできなくなるわけじゃない。まだできることがある」と、心から思えた瞬間でした。

繁田

繁田

残っている部分に目を向けられたのはさすがですね。お母様を介護されて、実際はどうでしたか?

恩蔵

恩蔵

もちろん認知症は進んでいくんですけど、どの段階であっても変わらない母に会うことができました。

繁田

繁田

恩蔵先生は脳科学者でもあり、発想の転換が非常にスムーズだったのですね。診断がプレッシャーにならず、気持ちや捉え方の切り替えにつながった。この「身近な人の認知症を受け入れる」というところが、なかなか難しいんです。多くの人は絶望的な気持ちになる。「そうじゃないんですよ、できることはいくらでもあるから、自信をなくさないでください」と、いつもそんなふうに声をかけています。でもやはり難しいことが多い。

何もできなくなるわけじゃない…。診断がついたことで変わった景色

初期にはうつ症状も……多くの家族が感じる「揺れる心」

INTERVIEW 4/8
繁田

繁田

お母様に、行動・心理症状のようなものはありましたか?わかりやすい症状としては、気持ちが高ぶって乱暴な言葉や行動が出てしまうなどの行動や、幻覚、妄想、うつや不安など、感情や気分に現れる症状ですね。

恩蔵

恩蔵

初期に不安やうつが続きました。一日中、真っ青な顔をしてただ椅子に座っているだけ…。得意だった料理も、合唱もやめてしまって、抜け殻のようでした。でも今思えば、家族の対応で悪化させてしまった部分もあると感じています。些細なミスを責めてしまい、母はどんどん自信を失ってしまって…。

繁田

繁田

ご本人が一番つらいんですよね。自分で自分の変化に気づいている分、落ち込みも深い。家族も受け止めるのが難しいからこそ、責めてしまうこともある。どこのご家族にも起こり得ることです。

初期にはうつ症状も……多くの家族が感じる「揺れる心」

料理を通じて取り戻した役割、母の中に生まれた“生きる自信”と”つながり”

INTERVIEW 5/8
繁田

繁田

診断された後、お母様との関係はどうなりましたか?何か変わりましたか?

恩蔵

恩蔵

病院からの帰り道に、「週3回、一緒に料理をしよう」と決めたんです。母は料理が好きでしたし、段取りや計画は難しくなっていましたが、包丁の使い方、例えば野菜の皮むきなど、料理の技術は残っていましたから。

繁田

繁田

そこは大切なポイントです。「できる部分」はたくさん残っています。

恩蔵

恩蔵

それから脳科学者として、母の状態を日々丁寧に観察することにしました。言葉や記憶が失われていく中で、どういうときに母の表情が変わるのか、どんな匂いや音に反応するか、料理のときにできることは?など、細かく記録して。

例えば、料理では、大根を包丁で切っているうちに、お味噌汁を作ろうとしたことを忘れて何のために切っているのかわからなくなってしまう。けれど、私がそばに立ち、「これは味噌汁だよ」など一声かけさえすれば母は続きができたんです。繰り返しやってきた技能は残っている。なので、手伝ってくれる人がいたら、以前の母のようにできるんだとわかったのです。

繁田

繁田

想像ですが、やはり一番苦しいのはお母さんなんですよね。できていたことができなくなるわけで。家族が何も言わなくても、怒らなかったとしても。適応するまでには、お互いに時間がかかると思います。

恩蔵

恩蔵

ええ、そうやって過ごしていたら、「自分でできたこと」が母の自信につながり、また料理をする母に戻ってくれました。3年間、二人で料理をし続けることができて、気づけば私が料理を教わっていたんです。母が長年を通じて培ってきた料理の技術は、認知症になっても失われることはなく、むしろ私が料理を覚えるために多くのことを教えてくれました。“母が娘に教える”という本来の関係が残っていたことが、母にとっても私にとっても救いになりました。他にもわかったことがあります。何か私が失敗しそうになると、母はものすごいスピードで私を守ろうとするんです。どの段階にあっても、母とつながる手段を見つけることができました。

料理を通じて取り戻した役割、母の中に生まれた“生きる自信”と”つながり”

昔の記憶は消えない。感情が鍵になる――観察と研究から見えてきたもの

INTERVIEW 6/8
繁田

繁田

昔の記憶が残る理由を、読者にわかりやすく説明していただけますか。

恩蔵

恩蔵

脳の海馬が担当するのは新しい記憶づくりです。だから海馬に傷がつくアルツハイマー型認知症では、新しい出来事を記憶しにくくなるんですね。一方で昔の記憶は、大脳皮質の側頭葉というところに蓄えられていますから、海馬が傷ついても、昔の記憶は生きている。特に“感情の動いた記憶”は残りやすく、ふとした瞬間に引き出されるんです。

繁田

繁田

家族はつい「覚えてる?」と問い詰めてしまいますが、そこが落とし穴なんですよね。

恩蔵

恩蔵

診断されてから亡くなるまで約8年間ありましたが、きっかけさえあれば、記憶がひゅっと出てくることはたくさんありました。母はよく、夕食を前に「チビちゃんどこ行ったの?」と言っていました。最初は意味が分からず否定してしまったのですが、やがて母の中で、食卓に並んだ料理を目にしたことがきっかけとなって、かつて“料理を終わったら一番に子どもに食べさせていた”時代の記憶がよみがえり、発した言葉だと気づきました。チビちゃんとは私のことだったと理解したときには、もう心から「ママ、ありがとう」という気持ちになりました。

母は音楽が大好きで、昔よく歌っていた歌をかけると、歌詞まで完璧に歌ったり、メロディを次々と口ずさんだり、リズムに合わせて体を動かしたりできたんです。音楽に思い切り気持ちをのせて、感情表現も豊かにしていました。言葉ではうまく感情を伝えられないことがあっても、音楽だったらできたんですね。認知症と診断されても、驚くほどたくさんの記憶が残っていることに気づかされました。「感情・表現」の回路はまだ生きているんだと、科学者として深く納得しました。

昔の記憶は消えない。感情が鍵になる――観察と研究から見えてきたもの

母と濃密な時間を過ごす中で見えてきた、
自分なりの寄り添い方
今この瞬間を忘れても、感情を鍵にした会話の工夫でつながり続けていける

INTERVIEW 7/8
繁田

繁田

記憶は薄れることはあっても、感情は積み重なっていきます。診察室でもよくありますね。家族と温泉旅行へ出かけたと聞いて、患者さんに「どこへ?」「いつ行きましたか」とは尋ねません。そうではなく「(きっと何か食べて)美味しかったでしょうね?」「海も楽しかったでしょうね」なんて話していると、途中で表情が変わってくるんです。「どこへ行ったか」は忘れても、楽しかった気分は残っているものです。この「ちょっと幸せな気分になった」という積み重ねが、家族が思っている以上に大きいことなんです。

恩蔵

恩蔵

わかります。思えば、母の病状が進行して重度になったとき、音楽療法を勧められました。その段階でもイントロが鳴ると一気に歌い出し、合唱団時代のプロの発声まで戻るんです。音楽療法のあとは表情が本当に柔らかくなっていました。

もう1つエピソードがあって。母が自分の名前も私の名前も忘れてしまっているように感じていた時期のことです。一緒に散歩していたら、ベビーカーを引いたお母さんを見た後で、「絢ちゃん」と私の名前を呼んでくれたのです。外に出たときの自然な流れで飛び込んでくる刺激や情報量って膨大で、記憶を引き出す良いきっかけになるんですね。

人間には新しい刺激が必要で、毎日家にいたら外に出たくもなります。散歩に出る母の後ろをついていくと、「花が咲いてるわ」とか、さまざまなものを発見しながら歩くんです。「徘徊」という言葉がありますが、アルツハイマー型認知症になった方は、どのようにしたら家に戻れるのかわからなくなってしまうだけで、何もわからずに歩いているわけではなく、「家に戻りたい」と思って必死になっていらっしゃることが多いです。無目的な「徘徊」という姿はないんですよね。

母と濃密な時間を過ごす中で見えてきた、自分なりの寄り添い方 今この瞬間を忘れても、感情を鍵にした会話の工夫でつながり続けていける

最後まで変わらなかったもの――認知症の母が教えてくれたこと

INTERVIEW 8/8
繁田

繁田

恩蔵先生が実際に経験してこられたように、“その人が大切にしてきたこと”は、最後まで失われません。約8年間の介護を振り返って、お母さまの“変わらないもの”を感じられた場面はどのようなものでしたか?

恩蔵

恩蔵

はい。最期まで変わらなかったのは、私への愛情です。亡くなる前日、意識がある最期の時間、母はずっと私のことを目で追っていました。“認知症になったら無関心になる”という情報を読み、私は強い恐怖を抱いていましたが、それは全く違いました。

繁田

繁田

とても象徴的ですね。認知症になっても、やはりその人の本質は残っているのですね。そこに気づけるかどうか、そこを見つけ続けられるかどうかが、その後の家族の在り方を分けると思います。

恩蔵

恩蔵

その人が大切にしてきたものを発見できれば、つながり続けることができる――。「本当に母ではなくなるのか」と恐れていた私にとって、それが大きな救いでした。認知症のどの段階でも、その人らしさは残っています。できないことに目を向けるのではなく「感情を見る」ことが大事なんだと、母に教えられました。最期まで母は母でした。

最後まで変わらなかったもの――認知症の母が教えてくれたこと